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こころのしずく

こころのしずく

其の一~其の十九




「るろうに剣心小説(連載3)設定」
必ず上記設定、特に注意事項にご了承頂けた方のみ本編をお読み下さるようお願い致します。

『いとけない君の願い事』目次


『いとけない君の願い事』


其の一「一つの始まり」

「平和だな……」
 縁側で、ぽつりとつぶやいた弥彦。
 それは一つの始まりだったのかもしれない。

『いとけない君の願い事』(るろうに剣心 連載小説 3)

 明治十一年初秋。縁との一件も落ち着き、剣心と弥彦の傷も癒えた。壮絶だった日々の連続は嘘のように、穏やかな日常が続いていた。秋の空は高く、陽差しはやわらかだった。涼しく澄んだ風が、ときおり吹いた。そんな、ある日の午後。素振りを終えた弥彦は、縁側で休んでいた。剣心は、洗濯物を取り込んでいた。
「そうでござるな。本当に」
 剣心は、まぶしそうに空を見上げ、笑った。
「けんしーん! やひこー! お茶入れたわよー」
 居間から、薫の声が聞こえた。左之助は既に座り込み、かすていらを食べている。
「弥彦。今日はかすていらのようでござるよ」
 山ほどの洗濯物を抱え、中に入りながら、剣心は呼びかけた。
「ああ」
 弥彦は、答えた。ぼんやりと、前を見つめたまま。

 茶の間を囲み、剣心たち三人は、かすていらを食べる。本当に、のどかな午後。
「剣心、弥彦は?」
「稽古を終えたばかりでござったから、顔でも洗っているのでござろう。じきに来るでござるよ」
 薫はうなずき、かすていらを口に運ぶ。
「そういえば最近弥彦、なんだか少し素直になったと思わない? いいコになったっていうか……」
「そういやぁ、あんまり口答えしたり突っかかってこなくなったよなぁ。どうしちまったんだ? アイツ……」
「成長してきたのでござろう。けれど薫殿や左之にとっては、張り合いがなくなるでござるな」
 剣心は微笑し、茶をすすった。
「どういう意味よーそれ! って、そういえば弥彦、何してるのかしら」
「仕方ねぇな。俺が見てきてやらぁ」
 左之助は、最後の一切れを口に放り込むと、立ち上がった。

 弥彦は縁側の柱に寄りかかり、目を閉じていた。
「なんだ。眠っちまったのか」
 抱きかかえようとして、異様な匂いに気付いた。床に流れていたものを見て、それが弥彦の口から垂れているものと同じものだと気付くと、左之助はあわてて弥彦を揺すり起こす。弥彦を呼ぶ声に驚いたのだろう、剣心と薫も駆けつけてきた。
「……ん」
 弥彦は、うっすらと目を開けた。
「おい大丈夫かっ!? お前、吐いて気ぃ失ってたんだぞ!」
「……」
 弥彦は、床を見て少し驚いた表情を見せたが、やがて口元を袖で拭った。
「……悪ぃ。もう大丈夫だ。なんか、悪いものでも食べたかな……」
 弥彦はよろよろ立ち上がり、ぼんやりしたまま井戸へ向かう。口をすすぎ、そばにあったタライに水を汲み、ぞうきんをしぼる。
「弥彦、本当に大丈夫なのでござるか?」
「ああ」
 床を、丁寧に拭いていく弥彦。
「ここはいいから、少し休みなさい?」
「いいって。自分の後始末くらい自分で出来る。昔からいつだって……」
 弥彦の手が、一瞬止まる。けれどすぐに、また床を拭き始めた。
 だから、誰も気付かなかった。そのとき止まった手が、微かに震えていたことに。


其の二「木刀の稽古」

 次の日、弥彦は道場にいた。体はもう良いのかと、一応剣心と薫はたずねたのだが、平気だと言う。いつも通り、剣心が見守る中、薫との稽古が始まった。数日前から、木刀を使う稽古に入っていた。実戦に備えた意味合いもあるのだが、本来ならば防具を着けて行う稽古である。けれど弥彦は、竹刀のときはともかく、木刀の稽古に入ってすら防具を着けようとはしなかった。だが、薫も剣心も、何も言わなかった。師範代である薫から教わることは山ほどあるが、実力的には既に弥彦の方が上である。木刀を食らうこともないだろうし、受けたとしても、弥彦なら上手く衝撃を和らげるだろう。剣心と薫の、弥彦に対する評価は高かったし、実際薫の木刀を、一度も食らったことはなかった。
「さあ、かかってきなさい。弥彦」
 それでも、薫とて負けてはいない。神谷活心流の使い手としては、当然薫の方が上なのであるから。突拍子な順番で、既に奥義を会得してしまった弥彦であっても、まだまだ習っていない技はたくさんあるのである。
 薫は、いつも通り受けの構えで待った。昨日教えたばかりの新技が飛んでくるはずである。ほぼ完璧にこなす故に、逆にそこから不完全なところを見極め正すのは、なかなか難しいことなのである。けれどそれも、師範となるための道。これは、薫にとっての修業でもあった。
 弥彦は新技を繰り出す。打ち込まれた木刀を通じて、薫の手に強い振動が伝わった。大丈夫。弥彦は元気そうだ。昨日のことで心配していただけに、ホッとした。
「少し右手に力が入りすぎているわ。余計な力は抜くこと。じゃあもう一度」
 薫は、今度は攻撃の構えをとる。
「今度は私も攻撃を返すからね。さっ、打ち込んできなさい!」
 弥彦は薫を、じっと見上げた。そのまま、動かない。
「……弥彦?」
 薫を見つめたまま、じっと押し黙る弥彦。その額は、じっとりと汗ばんでいる。
「どうしたの? もしかして、やっぱりどこか具合が悪いの?」
「ちが……」
 掠れた声で、答える弥彦。だが、どこか息苦しそうである。顔も青ざめて……だが本人はそれを押し切るように、相手である薫を見る目に力を込めた。そして構えようとした。だが……。
 弥彦の、木刀を持つ手は、わずかに震えていた。そのまま、構えることもせず、じっと固まっている。
「弥彦?」
 剣心に呼びかけられ、弥彦の肩はビクッと揺れた。木刀の震えが、ますます激しくなる。震えを止めようとしたのか、もう片方の手で腕を押さえつけたが、その左手も同様に震えていた。
「弥彦!」
 薫が一歩近づいたとき、カランと道場の床が響いた。弥彦が、木刀を落とした音だった。弥彦はそれを、信じられないという目で見下ろすと、突然ごぼっと吐いた。そのまま、膝から崩れるようにしてうずくまると、震えながらまた吐いた。
「弥彦!!」
 剣心と薫は同時に叫び、弥彦に駆け寄った。


其の三「よい子の笑顔」

 小国診療所の診察室では、恵の向かいに剣心と薫が立っていた。弥彦はここへ来る途中、意識が混濁し、そのまま気を失い倒れてしまった。今は、別室の寝台に寝かされている。
「身体に異常はみられないわ」
「でも昨日から二回も吐いて! それに様子がなんだか普通じゃないんです!」
 診察椅子に座り、落ち着いて診断を下した恵に、薫はあわててうったえた。
「……最近、弥彦君、どこか変わったところはなかった? 例えば、性格とか、態度とか……」
「性格や態度?」
 病とはかけはなれた恵の言葉に、薫は剣心と顔を見合わせた。
「いいえ、別に……。あ、でもそういえば、最近前より、あんまり口答えしなくなったわね。少しいいコになってきたっていうか……。成長したのかしら……」
「……」
 恵は、何か考え込んでいるようだった。
 そのとき、診察室の戸から、ひょっこり弥彦が入ってきた。まだ少し顔色が悪かったが、すっかり落ち着きを取り戻している。
「悪ぃ。面倒かけちまって。腹でもこわしたかなって思ったけど、別に痛くねぇし。もう治ったみてぇだ」
 だから帰ろう、と、弥彦は笑って見せた。
 そのぎこちない笑顔でさえ、失ってしまうことを、微かに予感したのは恵だけだった。


其の四「子供の着物」

 左之助はその頃から、不良仲間たちと数日を過ごしていた。だからその間、道場へ足を運ぶことはなかった。帰り際、仲間の一人から、子供用の着物をもらった。
「左之さんが良く足を運んでる道場に、確か子供がいたでしょう。いえ、親戚に仕立屋がいるんですがね、ちょいと縫い違えて売り物にならねぇってんで……けど俺がもらってもねぇ……」
 左之助は、三日ぶりに道場へと続く道を歩きながら、着物をつまみしげしげと眺める。
「……ちっせぇなぁ」
 これになんなく袖を通し、それでもまだ、弥彦には大きいのだろう。こんな小さな着物をぶかぶかと着るだろう弥彦を想像し、なんだか驚いた。
「こんな小さい体なんだなぁ、アイツ……。こんな服着るような子供が、死闘……ねぇ……」
 ま、アイツは特別かと、さして気にすることもなく、道場が見えてきてその思考も自然に消えた。

 左之助は母屋より先に、道場へ向かった。昼ドン前のこの時間は、稽古で、みんなは道場にいるだろうと思ったからだ。
 だが、薄暗い道場の中、立っていたのは弥彦だけだった。不思議に思ったが、声をかけようとして、ハッと息を呑んだ。弥彦の顔は青ざめ、目に隈が出来ている。寝ていないのだろうか。
 弥彦は、左之助には気付かなかった。ただ、ぼんやりと前を見つめている。いや、良く見ると、その目は何かに追いつめられたような、焦燥にかりたてられているかのようだった。木刀を持ち、けれど構えずに下ろしたまま……いや、あれは構えられないのだろうか。持つ手が震えている。しばらくじっとそうして、やがて手から力が抜けたように木刀をカランと落とす。弥彦の目は、恐怖の色に染まっていく。足が震えて、崩れるようにうずくまる。左手で腹を押さえ、右手で口に手を押し当て、必死で何かに耐えている。全身をガクガク震わせ、脂汗を流しながら、震える手でまた木刀を持ち立ち上がる。けれど、どう見ても立っているだけで、せいいっぱいに見えた。
 左之助は、だまってその場を後にした。とても声をかけられなかった。そんな、異様な気迫と雰囲気が、弥彦にはあった。誰も寄せ付けたくない、こんな姿を見られたくないと……小さな背中がそう語っている気がした。だから代わりに、母屋へ突っ込んでいった。
 居間には、剣心と薫、そして恵が、ちゃぶ台を囲って話し込んでいた。
「おい! なんだよあれ! 弥彦どうしちまったんだよ! んで何でほったらかしてんだよ!」
「三日もほったらかしにしたのはどっちよ!」
 立ち上がって怒鳴った薫の瞳は、悲しげに揺らいだ。


其の五「月明かりの部屋」

 左之助も上がり込んできて座り、ちゃぶ台を囲んで四人が向かい合っていた。
「とにかく、何度診ても、やっぱり身体に異常はないのよ……」
 あれから毎日往診してくれた恵は、ハァとため息をついた。
「そんなはずないです! 確かに、あれ以来私たちの前では平気そうにしているわ。けれど、顔色も良くないし、ご飯を食べてもすぐ吐くし、口数も少なくなって……夜も眠れてないみたい……」
「あなたか剣さんは、弥彦君と一緒に寝ているの?」
「え? ううん。一人で寝ているわ。あの子、子供扱いすると嫌がるんだもの」
「そう……」
 恵はまた何か考え、茶を一口飲んだ。
「稽古もちゃんと休ませているのに……大変だったのよ、やるって言って聞かなくて……」
 薫は左之助にぼやく。左之助は驚いたが、先程のあれは弥彦が皆には内緒でしていることだということに気付いた。言おうか一瞬迷ったが、だまっていた。
 恵は、真剣に考え続ける。
「恵殿。弥彦は強い子でござるし、何か分からない病だったとしてもそのうち治るでござるよ。だから診断がつかなくても、気に病むことはないでござるよ」
「ありがとうございます。けれど、病名は必ず突き止めてみせます。医者として、それから……」
 恵は続きを言わずに、では今日はこれでと、帰っていった。

 弥彦の症状は、悪化する一方だった。無理をして食べていた飯も、口に出来なくなっていく。眠れぬ日が続くようで、顔色もかなり悪い。話し方にも、以前の覇気が感じられない。弥彦自身は務めて平静を装おうとしていたようだが、それも追いついていかなくなった。口数がますます減り、ぼんやりしていることが多い。一番心配な症状は、急に震えて吐くことだ。そうして弥彦は、笑わなくなった。

 その夜。月明かりだけがぼんやりただよう、暗い部屋の中。弥彦は独り、自分の身体を抱きしめ、小さくなって震えていた。
「……痛い」


其の六「縁側の柱」

 真夜中、初めに気付いたのは剣心だった。弥彦がいない。薫を起こし、左之助にも知らせ、皆で手分けして弥彦をさがした。
 薫は出稽古先を当たり、左之助は赤べこへ向かう。剣心は皆と分かれて、初めてどこをさがしたら良いか分からないことに気付いた。考えてみれば、弥彦のことなど思っていたより何も知らない。良く、理解しているつもりでいた。けれど、剣心にとって弥彦は、憧れさえ込めた期待の象徴。自分の志を継ぐために頑張ってくれている子供。それだけで……。ある意味自分より強いと思っている弥彦には絶対の信頼を置いており、だからかいざというときに心配するための要素などなかったのだ。
 それでも剣心は、必死で考える。いなくなって初めて気付く。弥彦の、剣の強さも志も跡継ぎも関係無しに、ただ、いてくれたことの大切さを。今は失くしてしまった、無邪気に笑う顔が浮かぶ。そうだ、あの子は既に大切な家族だったのだ。そんな大切なことに、何故今まで気付かなかったのだろう。大切なものは、いつもなくしてから気付く。けれどもうなくしたくはない。
 弥彦のことを、必死で考える。今までの、弥彦の日常を。一日の始まり。朝起きて、飯を食べて、稽古をする。昼を食べて、午後は出稽古か赤べこへ。夕飯を食べて、風呂に入って……。これでは何も分からない。視点を変えてみる。弥彦が行ったことのある場所……左之助と戦った河原、蒼紫と戦った観柳邸……戦いのある場所ばかりだ。京都……まさか……落人群……ありえないことだ……。
 ふいに、ハッと思い出す。夕方の出来事を……。弥彦は、やけに強い夕陽の光を受けながら、縁側の柱にもたれかかっていた。秋も深くなってきて、夕焼けがもの悲しく感じる。その中にたたずむ、色付き始めた紅葉を、弥彦は見るとも無しに見ていたようだ。剣心が通りかかると、弥彦はハッとして、懸命に体をしゃんと伸ばした。そして、ほとんど話さなくなっていた弥彦が、やけに積極的に語りかけてきた。

『悪ぃ、剣心。面倒をかけて……。けど俺、早く良くなるように頑張るから……。大丈夫だから俺……』
『ああ。分かっているでござるよ』
 弥彦の目は、不安げに揺れた。
『剣心、あのさ……俺、ここへ来たときより、強くなっているよな?』
 剣心を見上げる眼差しは、どこか必死だった。
『ああ。もちろんでござるよ』
 剣心は、にっこり笑い答えた。
『ま……前に倒せなかった、敵、とか……』
 弥彦の呼吸が、心なしか乱れる。
『今なら、簡単に倒せるハズだよな?』
 じっと強く、けれどどこかすがるように、剣心を見つめる。
『前に倒せなかった敵?』
 弥彦の身体が、ビクッと揺れる。
『なぁ、倒せるハズだよな?』
 震える体を懸命に抑え、もう一度たずねる弥彦。
『……ああ。そうでござるな』
 剣心は、震えに気付かないふりをして、優しく答えた。
 秋風が吹き、紅葉の葉が何枚か、弥彦の身体にはらりと落ちた。それをはらうこともなく、弥彦はただ、何かを思い、じっと剣心を見つめていた。


其の七「薄の原っぱ」

 もしや弥彦はその「前に倒せなかった敵」を倒しに行ったのではないだろうか。仮にそうならば、誰のことだろう。弥彦がここへ来てから戦った敵で倒せなかった……雷十太か? いや、腑抜けになったあの男に、今更弥彦が何の興味を持つというのであろうか。まさか斉藤であるはずもない。あの斉藤を、簡単に倒せるというハズもないだろう。鯨波……あの男は武士魂で負かせていたハズだ。だいたい弥彦は、ほとんどの戦いで金星をとってきたはずである。弥彦を守らなければならなかったのは、道場へ来たばかりの頃だけだった。以降弥彦はどんどん強くなり、守るどころか時に戦いの助けになってくれるまでの存在となっていた。ならばいったい誰のことを言っていたのだ? 弥彦がここへ来てから……ここへ……来てから……、いや……来てから……?
 剣心はハッとすると、夜の小路を駆けていった。

 薄が広がるばかりの、さみしい原っぱの暗がりに隠れるように、弥彦はうずくまっていた。
「弥彦!」
 弥彦は、膝に顔をうずめ震えていた。泣いているのだろうか。
「弥彦……」
 もう一度呼びかけ、そっと腕をつかむ。そうして、青白い月の光を静かに受けて見えた弥彦の目に、涙はなかった。ただ、ひどく怯えた目をしていた。そうして竹刀を、しがみつくように、ぎゅっと抱いて……。この場所は、集英組の近くだった。そう、弥彦がかつてスリをさせられていた、極道組の場所……。弥彦の身体には傷一つついていない。けれど……。
「集英組の連中と、戦ったのでござるか?」
 傷一つ負わずに勝つことも、今の弥彦なら可能だ。けれど弥彦はその言葉を聞くなり、激しく嘔吐し、そのまま気を失った。
 意識のない弥彦をおぶり、剣心はそっと集英組の様子をうかがったが、戦った様子はなかった。


其の八「意外な事実」

 その足で、薫や左之助と落ち合うと、小国診療所へ行った。弥彦を奥の病室へ寝かせると、恵は今度ははっきりと診断を下した。
「これは身体の病ではないわ。心の病よ」
 意外な事実に、皆は驚愕した。
「集英組に対しての、強い怯えから来ているわ」
「集英組って、弥彦がスリさせられてた極道連中のことかよ!」
 体を乗り出す左之助に、恵はうなずく。
「だって……っ、確かに弥彦は、ひどい折檻を受け続けてきたみたい……けど今は私たちがちゃんと――」
「ちゃんと?」
 恵の、どこか責めるような言葉に、薫は驚いて口をつぐむ。
「何故昨夜、怖がっているはずの集英組と戦いに行ったのか、それは分からないけれど……」
 恵は本題に戻り、進める。
「本当に戦おうとしたのかどうかは、分からぬのでござるよ……」
 剣心も、うーんとうなる。
「そうですね。とにかく……」
 恵は、一人一人の顔を真剣に見つめる。
「原因を、何故今になって怯えるようになったかの原因を、突き止めなければならないわ」
「突き止めるったって、どうやって」
 左之助は、焦るようにたずねる。
「弥彦君を、分かってあげること。理解してあげること」
「けどあの子強がりだから……! 言わないわ……。だいたい、あの子に怖いものがあるなんて、信じられない……だってあの子は本当にとっても強い子だもの!」
「……そうね。確かに強いわね。けど、本当に、その強さは完璧なのかしら……」
 三人は、恵の言葉に驚く。
「まぁ……こういう病気は、強い子弱い子関係無しに、原因を人に話すことを避けてしまうものなの。思い出したくないから……。思い出すのが、怖いから……自分では、話したがらないハズ……。だから……」
 恵は一呼吸置き、口調を強めた。
「弥彦君を、ちゃんと見てあげて。話を、聞いてあげて。そうして原因を見つけたら、それを解消してあげること」
 恵はきっぱりと言いきった後、そうだと、付け加える。
「弥彦君がいい子になったって言ったわね。それは少し違うと思うわ。恐らくだけれど、弥彦君はもともと素直な子なのだと思う。けれど今までそうでなかったのは、気を張っていたから。ずっと戦いの連続だったし、まぁそれだけが原因ではないと思うけれど、とにかくいつも緊張状態にあったのね。このことは多分、なんらかの手がかりになるはずよ」
 そこまで語ると、今度は弥彦だけに話すことがあるからと、恵は一人弥彦の病室へと向かった。


其の九「意識の底」

 弥彦は、失った意識の底で、夢を見ていた。

”俺はこれからこの道場にいられるんだ。剣心がいる。薫がいる。幸せすぎて俺……”
 神谷道場に初めて連れてこられ、胸を熱くさせるのは、純粋な十歳の弥彦。

『馬鹿かお前。甘いんだよ。守ってもらえるとでも思っているのか?』
 誇り高く、立派な弥彦は、もう一人の自分を責め立てる。

”だって、家族になるんだ。剣心も、薫も、そういう風にしてくれる”
『勘違いすんな。剣心も薫も、お前を好きなわけじゃない。だけど強くなれば、”剣が強い俺”なら、必要としてはもらえるよ』

”剣の稽古をすればいいのか?”
『そうだよ。そうして自分の身は自分で守るんだ。誰も守ってなんかくれないからな』

”なんで? 剣心は優しいよ”
『お前を見込んでいるからな。だから守ったりしない』

”それは期待? 期待は……重いよ……”
『俺はうれしいよ。きっと期待に答えてみせる』

”期待の重さが、お前に分かるのか?”
『俺は強くなるんだ』

”お前は何も分かってない。期待を裏切ったら、どういうことになるか”
『強くなって、父上母上の誇りを守れる男になるんだ』

”なあ、俺の言うこと、聞いてんの?”
『未来が見える。期待に答えて、どんどん、強くなっていくんだ』

”俺は、たくさんの未来を願ってる。剣心がいて、薫がいて、明日も明後日もずっと幸せが続いていく……”

『幸せ……? 強くなること以外の幸せなんて、求めるな』

”求めていたいよ。だけど俺は……そう願うだけで……”


”俺には……未来が、見えない……”


其の十「寝台の上」

 ハッと、弥彦は目を覚ました。病室の、寝台の上。気分の優れない顔で、弱々しく息を吐く。
「弥彦君、君、ずっとうなされてたわよ。悪い夢でも見たの?」
 寝台脇の椅子に座り、ずっとそばについていた恵が、弥彦の汗を拭きながら、優しくたずねた。弥彦はそれには答えず、ぼんやりと体を起こした。そうして、不安な目で辺りを見回す。
「剣さんをさがしているの?」
 病室に静かに響いた恵の声に、弥彦は激しくびくりとした。小さな体を、さらに縮こめ、微かに震える体に耐えている。
 恵は、弥彦の小さな手を、そっと両手で包み込んだ。
「そうね。前にも同じようなことがあったわね。君がここで目を覚ましたとき、剣さんは行方不明に、そしてあのコは死んだことになっていて……。でも大丈夫。今はみんないるわ。剣さんも、あのコも、左之助も。今ここにいないのは、私が診察室で待っててもらうように言ったからなの。ごめんなさいね」
 弥彦の震えが、少しおさまったようだ。ぼんやりした顔で、首をゆっくりと横に振る。
「あのときは、大変だったわね。今までも、ずっと大変だった。けれど今はもう、すっかり平和になって……。ねぇ弥彦君、君もやっと戦いの日々から解放されて、好きなことが出来るようになった。弥彦君は、これから何をして、どんな未来を作っていきたいのかな?」
「……分かんね……」
 聞き逃しそうなほど微かな声で、そう弥彦は答えた。
「……そうね。分からないわよね……」
 恵は、何かを確認したように、ほんの少しの悲しみを隠した声で答え、続ける。
「ねぇ弥彦君、君と私は、少し似てるね。剣さんに拾われた子供みたいなところとか……」
 弥彦は、ほんの少しの関心を示したように、恵に幼い目を向ける。
「けれど、私と君は少し違う。正直、今でも君がうらやましいわ。だって君は私と違って、ちゃんと剣さんとあのコの家族であるのだもの」
 弥彦は、それを聞くなり、急に真剣になって恵を見上げた。
「恵、そんなこと言うな。恵は、家族だよ。俺だって、剣心だって薫だって、左之助だって、みんな恵のこと大切に思ってる。だからそんな風に思うな。なっ?」
 あまりの懸命ぶりに、恵の方が驚いてしまった。そんなことを言ってもらうために、この話をしたわけではないのに……。
「ふふ、ありがと」
 それでも恵は、優しく笑う。そう言ってもらえたこと自体は、とてもうれしかった。みんなを、家族のように大切に思っている。だから、年が離れた弟のような弥彦を治すことは、医者としてだけでなく、家族に近しい者として。ただ、弥彦の気遣いが、きっと本当の気持ちであるだけに、不自然な気がした。弥彦の言葉の中には、どこか申し訳なさそうな気持ちが含まれているように感じる。自分が道場で暮らしているからとか、そんな簡単な理由でもなさそうで。恵は疑問を抱く。けれど話を本題に戻す。すっと、恵は真剣な顔になる。
「弥彦君。君は自分のことだから、分かっているわよね。いろいろな症状が、心の辛さからきているのだということに」
 弥彦はビクッと身体を揺らし、怯えた目で息を荒くする。けれど恵は続ける。
「まずは、自分が心の病だということを認めなさい」
 弥彦の身体は、また小さくびくりと揺れる。
「それから、自分はまだ子供なのだという事実を。ちゃんと向き合えば、きっと治るはずだから」
 弥彦はハッと息を呑み、体を固くした。目をそらし、部屋の隅を見つめる弥彦の両肩に、恵は優しく手を置く。
「ねぇ弥彦君。それは君にとって、とても怖いことなのかもしれない。だけど、ちゃんと受けとめて。ね……」

 恵が出ていった後、弥彦は独り、小さくつぶやいた。
「だけど恵……俺は、子供であったらいけないんだ……」


其の十一「小さな物音」

 恵のアドバイスを受けた剣心たちだが、結局のところどうしたら良いか分からなかった。心の病だという。まずそれが信じられない。いや、恵が言うのだからそれは確かなのだろうが、あの強い弥彦がそんな病にかかった事実が信じられないのだ。事実そうだとして、何の原因があるというのだろう。弥彦は絶対に弱みを見せたりしないから、聞いても答えはしないだろう。仮に弥彦が強い子でなかったとしても、この病は原因を人に話したがらないという。やっかいだ。弥彦を見ていても、一向に分からない。今日も剣心と薫は、居間で相談を続けていたが、困り果てるばかりだった。
 その間、今日も弥彦は独り、道場で木刀を握ろうと懸命に努力する。けれど、状態はますます悪化している。木刀を持とうとするだけで震えが止まらず、うずくまり、吐くのを我慢する。痛そうに、小さくなって自分の身体を抱く。心が、どこか別のところへあるように見える。
 左之助が、静かに入ってきた。小さな物音がことりとしただけなのに、弥彦はビクッと震える。
「そんなに怯えんなよ……」
 どこかさみしげに、左之助はつぶやく。けれど弥彦は、ただただ身体をすくめ、震えるばかりだ。
「分かってる。ここでのことは、内緒なんだろ? だまっててやるから……」
 それでも弥彦は、体をぎゅっと固くして、辛そうに縮こまる。左之助は、弥彦に背を向けて、そばへ座る。
「何やってんだよお前……。お前はそんな弱いヤツじゃねぇハズだろう? 乙和との戦いんときも、四紳んときも、すごかったじゃねぇか。そんなおめぇが、集英組のヤツらより弱いはずないじゃねぇか……」
 返事の代わりに、弥彦はもどし、気を失った。


其の十二「暗い橋」

 暗い意識の底で、弥彦は橋の上にいた。初めて剣心と薫と出会った、あの橋だった。縁との激闘後、独り残されて泣いていたあのときの弥彦を、もう一人の弥彦がどこか遠くから見つめていた。

『ばぁか。今頃気付いたのか。お前は置いていかれたんだよ』
”違う! みんな、それぞれ事情があったんだ! 俺を置いていくわけない。だって家族なんだから”

『まだそんな甘い夢見てんのかよ。言っただろ。お前なんか誰も好きじゃないんだ。なのにお前は、繋ぎ止めていた唯一のことに失敗した。戦いの最中に気を失うような弱いヤツは、誰も必要としないんだ』

”薫はさらわれてただけなんだ”
『薫の一番は剣心だ。剣心のことで頭がいっぱいで、お前のことはすぐに忘れる』

”左之助は帰ってきてくれた”
『剣心のために戻ってきたんだ』

”剣心は鯨波から俺を助けてくれた”
『助けを必要としているヤツなら誰でも良かったんだ。たまたまお前だっただけだ』

 橋の上にたたずむ子供の弥彦は、信じられないという目をしている。恐怖と悲しみで満ちていく弥彦を、立派に振る舞う弥彦は意地悪く見下す。
『もっと言ってやろうか? 恵は道場のかかりつけ医で、医者としての誇りのためにいてくれただけだ。蒼紫と操は、薫に呼ばれて来ただけだ。だから用のなかった妙と燕は来なかっただろ? 現実を見ろよ。お前は今、この橋に独りだ』

”お前は、さみしくないのか?”
 暗い橋にたたずんだまま、もう一人の弥彦にたずねる。
『甘えんじゃねぇ。ただの居候だって立場を忘れんな。それにもうじき、剣心と薫の間には……』


其の十三「秋の風鈴」

 日に日に、弥彦は病んでいった。飯がのどを通らない。それでも無理矢理食べようとして吐く。やつれて、歩くにも足下がふらつくようになった。言葉を発することも、ほとんどなくなった。感情を表に出すこともなくなり、うつろな目をしていることが多い。遠回しであっても、集英組の話をなんとか聞こうとしようものなら、激しく震え、怯え、吐くばかり。最近では、常に微熱をおびている状態だ。ふと気がつくと、剣心たちをすがるような目で見ている。それに気付けば、すぐに目をそらすけれど。
 相変わらず、剣心たちは、どうして良いのか分からずにいた。


 体を動かすのもやっとの弥彦は、重い足取りで縁側へ行き、柱に寄りかかる。剣心は夕飯の支度で、薫は出稽古で、ここには誰もいない。紅葉の葉は、赤く色付いている。季節外れの、風鈴の音が鳴る。秋の風鈴は、さみしい。
 突如、意識は過去へと引き戻される。もう数え切れないほど起こしたこの症状だが、またも弥彦を残酷に襲う。木刀の嵐。容赦ない折檻。壁に叩きつけられるほど殴られ、頬は真っ赤に腫れ上がる。腹を蹴られ、息が詰まる。ごほごほとむせて口に手をやれば、吐いた血が付く。張り飛ばされて、鼻血がぼたぼた落ちる。腕をひねられる。床に叩きつけられる。手を踏みにじられる。
 何度も嘔吐した。その度、後始末をさせられた。倒れても、気を失っても、水をかけられて最後までさせられた。ほんの少しでも残っていようものなら、また折檻が待っていた。
 そうして、手当て一つしてはもらえず、食事も与えられず、スリに行かされた。地獄のような日々が続く――


其の十四「冷えた風」

 ハッと弥彦の意識が現実に引き戻された。また吐いて。けれど、それを拭う気力も体力も残っておらず、独りガタガタと震えていた。弥彦の意識は混濁していく――

『ほらな。やっぱりお前は独りだ。こんなんなっても、誰も来てくれないじゃねぇか』
”なぁ……こないだの話の続きって……何?”

 話をそらすように、幼い弥彦は話題を変える。

『剣心と薫は、想い合っている。きっともうじき結婚して、子供が出来るんだ。それはお前にだって、分かるだろ?』
”うん。それで?”

『剣心と薫の間には、子供が出来るんだ』

 もう一度、立派弥彦は繰り返す。

『剣心と薫と俺の三人で、前にその話をしただろう? お前、うれしそうだったじゃねぇか』
”ああ。俺がからかったんだ。生まれてくる子供の名前はなんにするんだって聞いて。薫は気が早いって怒って、剣心はそばで照れたように笑ってた”

『あいつら、さんざんまだ早いとか言っておいて、最後には白状したんだ。生まれてくる子供の名前、もう決めてたのな』
”そうそう、男の子なら、剣路にするんだって”

『お前は、きっと男の子だなんて言って、本当にうれしそうだったよな』
”お前は、うれしくないのか?”

『うれしいけど……』


 そこで、また意識が戻った。けれどまだ少し、ぼんやりしたまま。
「剣路……」
 弥彦は独り、そこにはいるはずもない、未来の子供に語りかけた。
「お前は、いいな。生まれる前から、無条件に愛してもらえて……」
 弥彦は、強烈な夕陽の光を、うつろに眺める。
「俺は、頑張って、期待にこたえて、頑張って、それでやっと、少しは必要とされていたくらいなんだから。好きにはなってもらえなかったけど……」
 そうして、弥彦は自嘲気味に、弱々しく笑う。沈んでいく夕陽を見届けながら、弥彦はつぶやいた。
「もう、限界かもしれない……」

『やっと気付いたのか』
 もう一人の弥彦が、呆れたように言う。
『剣を振るえないお前なんか、必要ないんだよ』

 冷えた風が吹いた。秋の夕暮れの縁側は、肌寒いはずだった。けれど弥彦の心は、そう感じているはずの身体を、ただ放っておいた。無意識に……。


其の十五「柿の木」

 数日後、新市が見舞いに来た。弥彦は、新市の家に泊まりに行きたいと言い出した。剣心と薫はとまどったが、弥彦がそうしたいというのならと、許した。
 新市は、弥彦の手を引き、独り暮らしの長屋へ向かう。塀の向こうに、実の付いた柿の木がたくさん見える。路地を歩きながら、不思議な気がした。脱走兵にただ一人勇敢に立ち向かった英雄の手を、子供のようにつなぎ歩く。けれど、考えてみれば、実際弥彦はまだ数え年十の子供なのだ。初めて会ったとき、小さすぎて視界に入らなかったことを思い出す。押し黙り、うつむき歩く弥彦は、どこから見ても年相応の小さな子供に見えた。
 弥彦は新市の家に着いても、ほとんど何も話さなかった。ただ、心なしか呼吸が楽そうだった。
 その夜、狭い部屋に布団を並べ、二人は横になった。弥彦は、新市に背を向け、頭から布団をかぶる。何かから、隠れるように。
「狭い部屋で悪いね。居心地悪いかもしれないけれど……」
「平気だ……」
 低くボソリと、答える弥彦。 
「道場は、息苦しい……。みんなで俺を、見張ってる……。困ったように、どうしようか、考えてる……」
 そう、本当に思っているような、いないような、分からないような言い方だった。そんな弥彦の背中を見つめ、新市は言った。
「ねぇ、僕、反省しているんだ。君はまだ、たったの十だっけ。そんな小さな子供を、最前線に立たせて、死闘をさせて、しかも守ってあげなかったなんて……。そりゃあ、君は強いけどさ……」
「……そうだよ。俺は、強いんだ……」
 なんだか、自分に言い聞かせるように答える弥彦。
「それは分かっているけどさ。やっぱり、その……本当は、怖かっただろ? まだ十歳なんだからさ……」
「……」
 何も答えず、弥彦は布団の端をぎゅっと握った。そうして、涙をこらえていた。
 どんなに楽に、なるだろう。怖かったと、言えたなら。


其の十六「知らないふり」

『馬鹿。今更おせぇんだよ。子供でいることは許されない。立派でなくちゃ駄目なんだよ』
”だけど、すごく苦しいんだ。悲しいんだ。辛いんだ”

『甘えんな! だからこないだ駄目だったんだ! せっかく集英組をブッ倒して元の俺に戻ろうと思ったのに、お前が組に着く直前で邪魔をして、しゃがみこんで……!』
”だって……怖くて……身体、動かなくなって……”

『ふざけんな! おかげで剣心にみっともねぇとこ見せちまった! せっかく今まで頑張ってきたのに……きっとすげぇ弱いヤツだと思われた!! お前のせいだ! どうしてくれんだよ!! 俺剣心の跡を継ぎたいのに、こんなんじゃ……認めてなんかもらえねぇ……! どうしてくれんだよっ!!』
”お前、無理なことをしすぎなんだよ! なんで俺のことそんなに追いつめんだよ! お前がいくら頑張ったって、俺はやっぱり十歳なんだ! お前だって同じ十歳なんだ! 薫は俺のこと、十歳としてなら日本一強いかもしれないとまで言ってくれた。俺うれしかったよ。なのになんでお前はそれで満足出来なかったんだ! なんでお前は薫の言うことを聞かないで、奥義なんか会得したんだ! だからますます苦しくなったんだ!”

『十歳? だから何? 十歳として日本一だからって、それが何の役に立つんだよ。俺は剣心たちと一緒に戦えるくらいの強さが必要なんだ! 奥義を習うのを断られた夜、戦いの場に行く剣心は俺に、来るなって、怒鳴った。あのとき俺、すげぇ辛かった! 俺は戦力にならねぇんだって、弱いんだって、思い知らされて……。強くなくっちゃ何もつかめないし大事なもの何も守れねぇと思った! だから奥義を会得したんだ! 分かったか? 分かったなら二度と十歳なんて口にするんじゃねぇ!!』
”けど事実は変わんねぇだろ!? どんなに剣が強くなったって、立派に振る舞ったって……俺はやっぱり怖くて、怖くて仕方なくて……!”

『全部耐えろ。早く元に戻れ。んで集英組をさっさとやっつけてこいよ』
”嫌だ! 俺、本当は怖いよって剣心にしがみついてたい! 助けてって左之助の背中に隠れたい! 大丈夫だよって薫になだめてもらいたい……!”

『……仕方ねぇだろう!? 今の俺は、立派でいるのが当たり前に思われてるんだから。たくさん、期待されてるんだから。ちゃんとそれに、答えなきゃ……』
”だったらなんでお前はあの手を振り払ったんだ!”

『あの手?』
”なんで初めて剣心が手を差し伸べてくれたとき、振り払ってしまったんだ!”

『……集英組から、俺を救ってくれたとき?』
”なんでお前は甘えなかったんだ!”

『だって……』
”あのときもっと素直に甘えていれば、初めから甘えていれば……!”

”もしかしたらもう少しは平気だったかもしれない……!”
 幼い弥彦は、追いつめられたように怒鳴った。

『何言ってるんだ? お前……』
 立派な弥彦は、幼い弥彦をきつく叱るように語り出す。

『甘える? 何言ってるんだ? 俺は父上母上の子供だ。神谷活心流の一番弟子にして唯一の弟子だ。剣心の跡を継ぐんだ。その為には、甘えるわけにはいかないんだ。辛くても毎日修業して、怖くても死闘を乗り越えて、強くなっていかなくちゃならないんだ。そうすればその度なりたい自分に近づけるし、みんなの期待にも答えられる。それはとってもうれしいことだろ?』

”うれしい? そうだな……。お前は確かにうれしそうだった。希望に満ちあふれてた。大人になろうとしていた。けど影で、俺がどう思ってたか、お前は知らないだろう?”

『……知らねぇよ。お前のことなんか……』
”本当は気付いていたんだろう!?”
『知らねぇって……!』
”俺から逃げんな!”

”期待が、重かったんだ”
『うるさい喋るな!』
”期待が重すぎて支えきれなくなったんだ!”

 幼い弥彦に圧倒され、立派だったはずのもう一人の弥彦は、ペタンと座り込む。

”お前は俺に、ずっと気付かないふりをしてた。俺とお前が話をするようになったのは、ホントは病気んなってからだ。病気んなってから、過去にさかのぼって話した。けど本当のお前は、ずっと俺のこと無視してたんだ。知らないふりしてた。俺のこと認めたくなかったんだ。俺は子供でありたかったから。弱かったから。甘えたかったから。だから認めたくなかったんだ。自分がただ小さくて、何も出来なくて、怖くて仕方ない子供なんだって。甘えたくて泣きたい、子供なんだって。そんな俺がもう一人の自分だなんて、認めたくなかったんだよ。そのうちお前は本当に俺のこと忘れちゃってた。けど、平和になって、気がゆるんで、お前の中に隙が出来た。お前は、誰かが泣いてるって、自分で俺を見つけたんだ。だからお前は、俺から逃げられなくなって、話をするしかなくなったんだ”

 追いつめられた立派弥彦は、座ったまま、信じられないような目でもう一人の自分を見つめる。

”……立てよ。お前が崩れたら駄目なんだっ! 血ぃ吐いてでも立てっ! それでも期待に答えないとならないんだ!”
 幼い弥彦は、泣きながら、もう一人の自分を叱咤する。

”だってお前の責任だろ!? 俺だって苦しいんだ! けどこうなった以上、お前がちゃんとしてくれなきゃ、困るだろっ!?”

 困惑する、座り込んだままの弥彦を、もう一人の弥彦は睨むように見つめる。

”期待に答えられなかったら俺たちはもうっ……”

 言いながら、弥彦の顔が苦痛に歪む。

”お終いだぞ……”


其の十七「朝の小路」

 翌朝新市は、とうとう朝食に手をつけることさえ出来なかった弥彦をおぶり、道場へ連れ帰った。弥彦を半ば強制的に布団に寝かせると、剣心と薫に詰め寄った。
「なんで弥彦君はあんな風なんですか! なんで弥彦君はあんなに涙こらえてるんですか! 泣くことを絶対に許していないんですか!? 弥彦君は怖いと言いませんでしたよ! 血を流しながら戦えと強要しているんですか!? あれじゃ病気にもなりますよ――」
 そこまで言い、新市はハッとする。
「すみません……そんなわけ、ないですよね……」
 新市は、頭を下げると去っていった。
「何よあの人……! 弥彦のこと何も知らないくせに……!」
 薫は荒々しく怒鳴る。
「弥彦は強い子なんだから! あの子は自分から戦いの中へ飛び込んでいくし、怖がったことだって一度もないわ! 剣の腕もすごいし、何より大人顔負けの強い精神力がある。自慢の門下生なのよ!」
 薫は感情のままに、一気に吐き出した。頬が少し上気しているのが分かる。
「ねぇ剣心。私、あの子が集英組に怯えてるなんて信じられない。やっぱり、どこか身体に病があるのだと思うの……」
「……」
 剣心は、新市が去った道向こうを見つめ、なにやら考え込んでいた。が、やがて、薫の肩に手を置く。
「中へ入ろう。身体が冷えるといけないでござるから……」
 二人が去った後、朝のまぶしい光が差し込む小路は、ただひんやりとした空気に包まれていた。


其の十八「道場に独り」

”なんでお前は甘えなかったんだ”

『またその話か』

”なんで差し伸べてくれた手を、振り払ってしまったんだ!”

『俺は強くなりたいんだ! 強くなるんだ!』

”お前が強くなるほど、誰も助けてなんかくれなくなる! 勝って当然だと思われる!”

『そんなら勝つしかねぇだろ! 負けたらどうなるか、分かってんのか!?』

”それでも……好きでいてくれるよ……。家族なんだから……”

『家族なもんか。剣心と薫は、結婚する。本当の家族になる。そして、子供が生まれる。お前の居場所なんかなくなる。今それを繋ぎ止めてる唯一のものは、剣の強さだけだ』

”そんな……こと……”
『お前、言ってること不安定じゃねぇか?』

”不安定……なんかじゃ……”
『期待に答えられなきゃお終いだって言ったのお前だろ!?』

”それは……”
『本当は分かっているんだろう!? 家族なんかじゃねぇって!』

”やめろ……”
『そう思い込もうとしてただけなんだろ!!』

”やめろよ……”
『家族だと思われていると信じてるわけじゃなくて、家族だと思われていたいと、お前はそう願ってただけなんだ!』



”だって……”

”そうやって……自分を騙してないと……”

”俺苦しくて死んじゃいそうなんだ……!”


『目ぇ覚めたか。もう自分を騙すのはよせ』
”苦しい……。苦しい……。お前のせいだ……”


 そうして弥彦は、道場に独りたたずむ。震えながら。怯えながら。それでも木刀を握ろうとする。何度も倒れては起きあがり。吐いてはうずくまり。ただ必死で。追いつめられた表情で――


 そんな姿の弥彦を、剣心は今日、初めて見つけた。

 新市の言葉が心の中でもやもやして、独り道場で思考をめぐらせようとここへ来たのだが、まさか弥彦がいるとは思わなかった。
 扉をそっと開けかけ、けれど影から、ただ、呆然と見ていた。それは、剣心にとって、信じられない光景だったから。
 しばらく見つめていた剣心だったが、やがて、静かにその場から離れた。


其の十九「遠くの背中」

 剣心がそのまま向かった先は、恵の元だった。

 診察が一段落つくと、診察室は剣心と恵だけになった。
 剣心の用件は、恵から話を聞くことだった。薫が殺されたと思ったあのとき、左之助が去ったあのとき、自分が落人群に座り込んだあのとき……弥彦が何を思い、どんな風に過ごしていたか――。考えたこともなかった。何故なら剣心が知っている弥彦は”姿形は子供だが心根は立派に一人前”なのだから。そうであった、はずなのだから……。

 弥彦は当時も変わらず、常に前向きで、強く、ひたむきだったという。やはり想像通りであった。しかし、ただ……と、恵は続けた。弥彦を、独りで道場に帰した日があったのだと言う。それはまだ、薫の葬儀が済み、間もなくの頃で。落人群へ行った帰りに、弥彦を誰もいない道場へ帰してしまったのだと、言いづらそうに恵は言った。別れた弥彦は、橋を渡っていったという。その橋は弥彦が、剣心や薫と初めて会った橋なのだと、知っていたのに……独り橋へ向かう弥彦に、何一つ声もかけず、別れたと言う。弥彦は強い。それでも、たった十の子供を、あんなことがあった後に独りで帰したのは可哀想だったと、恵は済まなそうに話した。蒼紫と操は、ちょうどその橋で弥彦と遭遇したそうなのだが、話によると、様子がおかしかったという。暗かったし後ろ姿で良く分からなかったが、うつむいて立ちつくしていたと、操は言っていたそうだ。

 帰りしな、恵は遠回しに剣心にたずねた。弥彦が、子供らしいところを見せたかどうかを。残念ながら、良い返事は返ってこなかった。弥彦に、子供の自分を認めるようにと言った。それは、ちゃんと大人を頼って、苦しいことを話してくれるようにという願いからだ。それを治療の一環として告げたのは、医者として。心から願い告げたのは、家族に近しい者として。そうして今日、剣心を見送りながら、遠くの背中に告げた。弥彦を、十の子供に戻してあげて欲しいと。けれど、それを直接剣心たちに言うことは出来ない。形だけでは、駄目だから。弥彦の中に眠る、十歳の心を、しっかりと見つけなければならないから。そしてそれは、自分で探さなければ、見つからないから。





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